ブログblog

自己流勉強法で、その後、国語は勉強したことがない理由ー高岡の個別指導塾チェリー・ブロッサム

それは小学校五年生のある日、いつものように本屋さんに行き、何か面白い本を買ってこようと思っていました。
その日に限って、これという本がなくて、でも、参考書や問題集のある本棚に目が行きました。
その棚の一冊に、『国語の突破』という参考書がありました。同じ受験研究社で有名な『自由自在』はあまりにも有名でした。
兄と一緒に母に連れられて、問題集と参考書を、と選ばされたとき、まだ私用の参考書というのがなかったことがあり、兄は参考書と問題集だったのに、私は問題集だけで、なんとも幼いと言われたようで寂しかったのでした。それで、自分の学年にも参考書があるというときめきを覚えたのか、兄のお古の参考書は、『力の5000題』にしても数学などでしたから、どうも国語にときめいたようでした。
本屋さんのレジでは、

こういうのより、教科書に合った問題集とかの方が良くない?

と言ってくださったのですが、なんとなくその参考書が気に入って、私はその参考書を買ってしまったのでした。
正直その装丁の少々重たい感じがカッコよかったとも感じられたのだと思います。
ちょっとお姉さんになった気分。勉強する学年になったというような。

母は何と言ったのだったでしょうか?
兄の受験の方が差し迫っていたので、私のことはあまり気にしてもいなかったのかもしれません。
なにせ、手の掛からない子認定されていましたから。(笑)。
でも、担任の先生とはうまく言っておらず、一学期に学級委員をしたときも、それまでのどの先生とも仲よくしていたのとは違って、あまり目立って活動もしていませんでした。
どうも好き嫌いがおありで、どうも母は家庭訪問で、少々生意気なことを言ってしまい、親子であまり好かれていないようでした。
劣等感の強い方だったのでしょう。
お父様は校長先生、弟さんが国立大学卒で学費がいらなくて、お家のお部屋が14あると自慢なさっていたので、ひっくり返せば、ご自分に自信がない方だったのだと思われます。
学年が上がって、すぐの学級委員を決めるときに、圧倒的多数で私がなったのを、どう思っておられたのか?
何かあると、ちょっと照れ笑いなどをすると、

何笑ってんの?バカにして・・・。

とおっしゃって、

もうどうしよう?

状態でした。

暗黒の2年。あちこちのブログで書いているので、結構この方は私の文章の中に登場されます。
が、その後教員になった私から見ても、どうして誰も何も対処しなかったのか?というレベルに酷い教師でした。

この先生はその性質がわかりやすい人ですが、正直、大人になれば自分の劣等感くらい自分で何とかしておくべきだと思います。
劣等感があるのなら努力すればいいし、努力している分にはそんなこと気にならなくなると思います。
とはいえ、別の人格の人だから、内面でどう思われるかまでは責任は取れません。

文集に私の作文を載せたり、卒業式の時の代表に選ばれたりしたから、まあ悪印象だけではなかったのでしょうが、とはいえ、出会った時から、私の方がその人が苦手でした。話せないのです。
その後の人生にも、よく似た類型の方は登場されました。
見た瞬間、ダメだなと思わされる男性。

そのことは別にして、私はその参考書を開いて読み始めると、私の大好きな世界が広がっているということに気付き、それからちょっと勉強を始めました。
おもしろくてどんどんはまっていきました。
おそらくは、その先生が怒る(教育的に叱るのを見たことがありません。ただただ、どこか地雷を踏んだら、暴力を含めてものすごく怒るのです。)ことから逃げたくて、品行方正を目指し、勉強の方でも何も言わせなければいいという、なんとも私の性質の良くないところを表していると思うのですが、これは私の興味・関心からも一石二鳥な方法でした。
どうも、教室で目立ってしまうと、何をされるかわかりません。
とはいえ、それまで学校で活動していたエネルギーは、その先生の前で使えば、いったいどうなることかわかりませんから、私はそのエネルギーを勉強することに使ったものと思われます。

兄が使ったのかどうかわからない数学の参考書に移り、母に社会の参考書を買ってもらいました。
理科は兄のお古がありました。
勝手に、勉強を始め、

塾に行かなくていいの?

と言われたのですが、言ってみれば勝手に中学受験用の勉強を始めたわけでした。

受験はしないで(担任の先生にあれこれしてもらうのが嫌だったのでしょう。小学校の時に幼稚園の先生から、小学校の受験の話は振られたそうですが、祖母も母もそういうことに一生懸命になる質でもなく、先生のおっしゃる特別指導に行くわけでもなく、まあ、願書だけ出しとく?みたいなノリで、そうしたら、先生が、提出期限を忘れていたとかいう、呑気な話でした。)、そのまま地元の中学に進学しました。
父は、

朝寝坊のお前が、遠くの中学に行ってどうなるねん?

と言っていましたから、まあ、そういうことでもあります。(笑)

なぜか中学校では国語ができました。
勉強は、当時はまだ学校からワークをあてがわれるようなこともなく、漢字練習と語句の意味を調べる程度。
ただただ、先生方の授業が面白くて、だから国語は、先生になるのだったら中学校にと思っていた節がありました。
中三の時は大抵国語は学年トップでした。
同じ高校に進んで、その中でも一番できた同じクラスの男子からも、

国語はお前には勝てん。

と言われていたし、担任の先生が、実力テストの答え合わせをしようにも答えがないときに、私に答えを聞かれるという、笑えない話もありました。

反対にいつの頃からか、大好きだった数学が足を引っ張るようになったという思い出があり、今では数学の問題を見ると、嬉々としていますが、だから、生徒さんたちには、

数学!数学!数学が合否を決める!

と言ってつい数学の演習をしてしまいます。

国語のテストの時間は、本当に真剣勝負というよりも、ただただ、新しい文章に出会えることが楽しくて、その文章にのめり込んでいたのを思い出します。

忘れもしない、中三の夏休み明けの実力テストで、第一問に、島崎藤村の「椰子の実」が出ました。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実ひとつ

第一連の終わり

汝はそも波に幾月

という言葉に、私はびびっと来たのです。

椰子の実に語り掛けている、その言葉に。

私の母は、ソプラノで、よく歌を歌ってくれました。
母の高音は憧れですが、私の声は低くて、でも、メゾソプラノみたいです。
その母がよく歌ってくれた『椰子の実』の歌。
詩になると、言葉にすると、音楽ではない、こんな世界が広がるのか?

実力テストなのに、その世界にはまり込んでいました。
音楽の教科書に載っていた楽譜で、ピアノの練習をしましたが、それまでの『椰子の実』とは全然違う情感が迫ってきました。
こう書いていても、今でもその頃の感動が、胸に迫ってきます。

名前も知らない遠い島から、流れてきた椰子の実よ。
故郷の島を離れて、どれほどの年月君は流れて来たんだい?
君がなっていた、その気は今も生い茂っているのだろうか。
枝は今も影をなしているのであろうか?
私もまた、君と同じく、一人で旅をする身なんだよ。
実を拾い上げ、胸に抱くと、改めて旅する自分のつらさが沁みる。
海に落ちる夕陽を見ていると、異郷にいるという悲しみの涙がたぎり落ちる。
思いやってしまう。故郷よ。いつになれば帰ることができるのだろうか。

椰子の実にここまで感情移入するのはさすがは文豪、相当な文学的感性ですが、どうも、文学の徒は、比喩表現が好きで、なおかつ擬人化するのが好きなようです。
それはときにアニミズム的ですが、アニミズムよりも、椰子の実は生物ではありますから、そこは擬人化し、自分の感情をその身に投影するのは、よくわかります。

でも、まん丸い椰子の実に、遠い島から、どんぶらこっこ、どんぶらこっことやって来た(いや、桃ではないか。)素朴な小さい椰子の実に、自分を重ねる藤村のその感性に、当時、どこか孤独の憂いをもっていた、というかそう信じたかった私は、その詩が大好きになってしまいました。
大好きというよりも、言葉というものの偉大さに、つくづく触れたということかもしれません。

今でも、大好きな音楽ですが、もし、音楽か文学?のどちらかを捨てなければならないとなれば、迷わず私は音楽を捨てます。
音楽を捨てても生きては行けますが、文学を捨てては生きてはいけません。
この世に空気がないのと同じになってしまいます。

その後、文学的世界よりも、ある意味健康的に、生活指導であれこれやっていた高校教諭時代、大阪で、「花博」が開催されました。
中高全部だったかで(高校部だけだったかもしれませんが。)、校外学習で「花博」に行きました。
そのときに、いたのです。
そう、椰子の実が。
会いたかった、会いたかった椰子の実が!

生徒の引率と言っても、一部の時間、案内所にいればいいので、先輩の先生とはぐれて私が一人で歩いていたときでした。
同期というものを持たなかった私は、一人で歩いていたので、誰も止める人もいません。
女性教諭が、その椰子の実を持って帰るということが、ビジュアル的に、どういうものかも想像できたのですが、なんと言っても、あの椰子の実です。
どうしても連れて帰りたく、買ってしまいました。
その椰子の実をどうするというあてもなく、ストロー付きの椰子の実を買って、バスに戻ると、生徒たちに笑われるは、先輩の先生には、

買うと思たわー!

と笑われるは。私は大阪出身なのに、都会育ちだということを疑われるほどの素朴な娘でした。(笑)

それから椰子の実は、私の寮の部屋のキッチンのテーブルの上に数日置かれていました。
細い穴からのストローを差したまま。
この際、可愛い椰子の実について、あれこれ言う気持ちはありません。
数日は私のそばにいてくれるはずです。
そして、最初の日には、薄ーいココナッツジュースだったのが、数日すると、甘ーい甘ーいジュースになっていたのでした。
それを図書館でのお弁当の時間に話すと、呆れられていたのだと思います。
先輩の先生のおかしそうな顔。

あの文学的椰子の実は、私のそばにいると、おいしいおいしいジュースを提供してくれる、現実的な可愛い人になったのでした。(笑)

でも、あの中学生の頃の椰子の実への思いは、その頃も今も変わることなく・・・。

公開:2025/11/24 最終更新:2025/11/24
ページトップへ