いろいろな教育現場についてー高岡の個別指導塾チェリー・ブロッサム
ゴールデンウィーク明けの次の週、つまりは来週はもう、高校の中間考査が始まります。
一部の中学校で修学旅行が来週末にあり、振替指導になったりしています。
楽しみな反面、勉強とのバランスが大変な時です。
もう遠い昔のことですが、自分自身のこととして、中間考査の後に修学旅行があり、中間考査の最後の試験で、副学年主任の先生が、
もうこれで中間考査は終わり!あとは修学旅行に行くだけだ!
などと言ってくださったのを覚えています。
その先生は、その頃ご病気をお持ちで、血尿と戦い抜いた修学旅行だったとのことでした。自分が受験生だというのに、なぜか先生方の大変さを思っていました。将来教師になろうと思っていたからか、その学年の先生方が良くしてくださったという思いがあったのか、それとも、当時荒れに荒れて、修学旅行の後、期末考査の最終日に、同級生たちが、事故死するというような問題のある中学校生活の中で、先生方がどれほど大変かということをどうしたって考えないわけにはいかない状況だったのかもしれません。
父と母に、
先生って、ほんまに大変な仕事やと思うわ。
と話したら、
どんな仕事でも大変やよ。
と半ば叱られたのを思い出します。
毎日毎日何十人もの生徒の目にさらされ、指導という名のもとにあれこれ言わなければならず、でも、メインは授業のはずです。今ほどに塾というものが市民権を得ておらず、どこか良くないものとして捉えられ、先生方も、学校外の教育をよくは思わないという感じで、それは一方では、学校教育というものへの矜持だったとも言えるし、それほどに背負っておられたということでもあると思います。
自分でもその職についてみて、公立の中学校などではなかったので、それほどではないにしても、やろうとするほど仕事が増えると言った性質の仕事だし、一方、それはどうすればいいのかわからないにせよ、あまり頑張らないようにもできたのかもしれません。
話がずいぶんズレました。
だから、学校に何かお願いしても、それは先生方にどうにかできるものではないのだということを、そしてそれをどうにかしてくださいと言っても無理だろうことも知っています。むしろ先生方のご負担が軽くなるような方向でご協力する方が、変な表現をすれば、わが子の教育にも効率的だと私は思っています。
理解ある人に対して、人間はよくしたいと思うものだと思います。
ちょっとハマらない性質のわが子の担任の先生とも、私は人間関係を構築できるようにと努めていました。
自分の子どもが、その先生の価値観とは合わないとき、親は切ないものです。あちこち渡り歩いてきた身としては、その土地土地で価値観が変わることも知っています。
思い悩んで、かつての先輩にお電話したこともありました。
息子の場合、担任の先生は、
話がまとまったと思ったときに、別のことを言い出す。なんでそこでそれを言うのかと思う。ただ、彼は能力があるから、彼のことは心配していない。
とおっしゃるのです。つまりはクラスをまとめるのに、息子が、変なことを言い出すという訴えのようでした。
まあ、経験的にもいろいろな生徒がいるものです。
高校で教えていた自分とは違うだろうし、私など担任を持たずに退職しましたから偉そうなことなど言えません。
とはいえ、母としてはそういうことを言われるのは切ないものです。
そして、わが息子の性質もよく知っており、自分にも、もっといいモノを作ろうと、何かに最後まで考えてしまう性格なのはわかっているので、その状況は手に取るように想像できました。それに、息子は、
先生にはお世話になっている。
とむしろ先生を慕っています。おそらく先生には息子の気持ちは伝わっていなくて、少々困った子になっているようです。
私にもそういうところがあるかもしれません。
これでいいやん、とまあまあのところで決まっても、もう少し良くならないかな?と考えて、工夫してしまうところもあります。
息子にしてみれば、もう少しいいものを・・・、とアイディアを出しているに過ぎないのでしょう。
でも、やっぱり悩んで先輩に電話をしてみました。
親子ほど年の離れた先輩は、電話の向こうでおっしゃいました。
ああ、その先生は、彼(息子)のことを知らないんだな。
そういえば、その先生に言わせれば、息子は目立ちたがり屋やから、となっていました。
母親目線で言うと、息子は本来おとなしめの人間でした。ただ、誰かのためになら、頑張って勇気を出します。私もそういう人間だからわからなくもありません。
誰が自分自身のために目立ちたいなどと思うでしょうか?誰かのためになるために、発言もし、誰かに何か思われるかもしれなくても行動しているはずです。
知らない?
それはどういうことだろう?と考えていました。
年を重ねた今なら私にもわかります。
その先生は、周りと合わせること。このラインという、ご自分の手の中で納まる範囲のことをされたかったのでしょう。
今なら、そういうこともあったよね!と思い出して笑い飛ばすこともできますが、当時の母としてはわが子のことだから、それこそ切なかったのです。
相談した先輩の奥様が、
女は子どもに何かあったら、子宮が痛むって言うじゃない?
とおっしゃったことを私のような、幾分頭でっかちで、感情よりも分析しようとする癖があった人間でも、わが子のことになると理性などぶっ飛んで、大いに悩んだものでした。偉そうなことを言っても、子どものことになると、いつでも大慌てでした。
少なくとも、周りにどう見えていたとしても、心の中は大嵐というものでした。
そして思うのです。教師としての自分の発言が誰かにとってとんでもないものになっていたかもしれないということを。
自分の都合でものを言わないようにしたい。
目の前の生徒さんの姿を味わって、この子はどう感じ、どう考えているのか、ということを素直にまっさらな気持ちで受け止めたいと思います。
昨日、ネットで、高岡の中に、不登校の生徒さんやご家庭がしんどいという生徒さんのための場があり、かつてもそのお話はお聞きしていたのですが、ずいぶんといろいろな生徒さんの心のよりどころとなられているということを知りました。
その中で、まずはその子が言っていることを聞いてみる。わがままの中にこそ本音や問題がある、というようなことをおっしゃっているの読んだ時、ああ、本当にそうだよなあ、と思ったのです。
何を言っているのか?ということを虚心に聞く姿勢が、本来、聞くということの在り方だと思っています。
私自身、教育現場にいて、自分が一番役に立てる場所はどこだろうか?分野は?と考えてきました。
不登校の生徒さんを、大学に合格してもらったこともありましたし、発達障害をお持ちの方の指導もし、受験に合格してもらったこともあります。
そうかと言えば、進学校の生徒さんを大学へと導くこともあります。
あまりにいろんなことをしてきて、どこが一番適しているのか?と何度考えてきたことかしれません。
力を入れることさえできれば、どの分野もやれる自信はある。
でも、ここ最近のチェリーの動きと、周りに期待されることから、それ相応の方向性というものが見えてきているという一面もあります。
そういう教育への思いの中で、居場所を作ろうと懸命に取り組んでおられる方々の活動が、私にはありがたくも嬉しくもなりました。
誰がどういうところに適性があり、またどういう子どもさんが、どこに行けば適切な教育を受けることができるのか。
そういう意味で誰もが何もかもをやろうとしなくても、それぞれに得意分野があり、最も適性のある分野というものがあるのだろうと思われてもらったのです。
これからはいろんな意味で専門化も進み、そのための知識を得、素養も身に着けさせてもらえる機会も増えてくると思います。
どうも教育が、大きく方向性を転換しようとしているときに、また一つ、考えさせてもらえ、また教育の世界に希望の光を与えていただける記事だったなと思っています。
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