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教育、躾け、どちらも言葉をもつということなのだなあ、と思ったこと。

実は、交渉事、でもないのだけれど、そして、それは自分のことでもないのだけれど、ある人に、話をうまく通さなくてはならなくなって、あれこれどう伝えるか?ということを考えていた。
伝え方の工夫、ということについては、職員室で先輩の先生への話の通し方など、昔からあちこちで教わってきたし、工夫もしてきた。現代文の教師であるから、時には有効な譲歩構文なども使ってみたりする。(笑)

どうして、その話をしなければならないか?というと、ある方がお命じになったことが、正しくはあるけれど厳しい面があり、私は相当に理解でき、それは正しいし、私ならしっかり守るだろうな、と思えることなのだけれど、それを実行しなければならない人にとっては、大変にしんどいことで、どうも耐えきることができないようで、私は先日から、そのことを愚痴程度ではあるけれど、訴えられているのである。
それをどうしたら折り合いの着けるところに落としてもらえるか、頼んでみようと思っていたのである。

お弁当を作りながら、あれこれ論理構成をしてみる。
二項対立で、ここは感情は入れない。
とやってみるが、私は厳しめの方が好きなタイプなので、なんとも複雑な論である。

そこで思い出した。
私は、自分に厳しい人が好きである。自分に厳しい人はそのつもりはなくても、人にもおのずから厳しいことを言っているということになることもある。

生活指導をしていた、ということを、図書館の係をしていました、とか、総務をやっていました、などということより、あちこちで書いてしまうのは、あまりにも学びが多かったせいだ。
それ以前に、社会に出たのが、学校現場、しかも全寮制で、生徒の家庭生活まで担うというような学校で、当然心構えや気持ちの持ち方、それにある意味の交渉術にもなるような(組織が入り組んでいたから。これがうまく行かなければ自分の仕事がうまく進まない。協力あっての自分の仕事だった。)コミュニケーション能力も培われた。
学校側に属していても、寮の上層部や寮の先生とうまく行かないと、仕事が進まない面もあった。
こういう言い方したら、角が立つよなあ。
○○なこと言ったら頼りなく響くよなあ。

生徒との距離も取ることに工夫を要した。
なぜなら、学校にもいるけれど、言わば家庭生活も共にしていたから。

寮の先生への言葉、職員室での言葉、自ずと使い分けていた。
おまけにお弁当を食べる図書館には、学園の奥様方の代表のような、生え抜き中の生え抜きである小学校の校長先生の奥様がいらした。
ちょっと気の利いたことを言ったら、つまりは先生色を出したら偉そうだと言われるし、しっかり発言しなかったら頼りない、と言われるし、全然違う世界で、及びもつかないけれど、梨園の奥様方が、出しゃばってはダメ、でも目立たないのはもっとダメ、というなんとも相反するものを求められていらっしゃるということを何かで読んだとき、ハハーンと頷くものがあった。
なるほどね!と思わされる。

私は、生活指導も厳しめの方が好きだったし、高校生がおしゃれの要素をどうして制服の中に取り入れようとするのかがわからなかった。
第一、セーラー服には清楚さが一番に合っているし、清楚さがそれほど似合う時期もない。
が、あれこれ指導を続けて、時には先輩のやり方を観察し、そのうち、ちょっと余裕をもって言葉掛けをすることの効用を見出した。
生徒は、本当にそうだなあ・・・、と思わなければ、行動を変えようとなんてしないのである。
仮に正しいということを頭で理解したとしても、腑に落ちなければ、最近の言葉で言うなら、腹落ちしなければ行動を変えたりはしないのである。
教師の目から見て、生徒の状態はちょっとの変化でも服装や振る舞いからわかるものである。

ただ、言葉を尽くして言ってみても人は動かない。
なぜなら人は感情の生き物だからである。
もちろん、学校側だって、上層部に行けば学校側の責任や都合の割合も大きくなるだろう。
でも、下っ端で終わった当時の私にとって、もちろん学校の行く末も大事だったけれど、一人ひとりの生徒の将来の方が大事だった。
説得なんて無意味である。ほぼほぼ。
ああ、そうだなあ・・・、と思わなければ。

そのうち、言葉をもち出した。
あら、お美しいおみ足をお見せになって・・・。わたくしに対するイヤミかしら?
とニヤリ。
あら、赤い唇だわ~。私なんかそういうことに疎いから、女性としては尊敬するけれど、ここは学校だしね~。
ここは私の顔立ててくれるかしら?
などと情に訴えもした。

注意する以前のちょっとした言葉掛けが、人のこころを丸くする。聞く耳も持つようになる。
気持ちを理解してくれる大人に、若い人たちは同じように理解しようと努めてくれる。
もちろん、一つには学校側の、学校をしっかり治めて行かなくてはならないという都合も立場もある。
それが冷然とした事実である。
私も、母校で、担任の先生が、私たちがあることをしようとして、ダメだという釘差しをするときに、
だったら、もし何かあったら、学校側の立場はどうなるんですか?責任取ってくれますか?
とおっしゃったのを思い出す。

どこに行っても社会である。
でも、人はそうそう理屈では動かない。
だから気持ちに訴えなくてはならない。
ときにはユーモアも必要だし、ひと呼吸おいて話すことが重要である。

件の訴えをどこかで甘いなあ、と思いつつ、命じておられる方のお気持ちも信念も十分に理解しながらも、命じられたほうは、納得がいかない、というか、受け入れることが難しいのだろうなあ・・・。
とわが身の経験に引き寄せつつ理解している。

教育にしても子育てにしても、言葉をもつということは大事である。
それは能力というよりは、一瞬の相手の気持ちを聴いてみよう・・・、という心のこなし方にあるように思えてならない。
それぞれの職業の専門性によるとはいえ、その職業が求める言葉をたくさんもてるようになるといいのかもしれないなと思っている。専門ではない人のこころを動かすことのできるような。
時間が足りない。
でも、その一言がそののちのたくさんの時間を省いてくれるだけの効力はある。
それは教育や子育て、いや、そのほかの人間関係においても言えるだろう。

かつて、非常に厳しかった先輩の言葉が私には至極当然に思えて、周りの先生方には理解しがたい言葉であったことが、不思議に思えていたことを思い出す。
いつも中庸でありたい、どちらかに偏りたくない、と思いながら、自分の偏りがいつか見えてくるのだろうか?と思っていた。
年を重ねて、あれこれと気付くことも多くなった。
それだけ経験による余裕も出てきたということだろう。
生徒の一瞬のジョークを聞いて、軽く受け止めてからこちらの言うことを伝えることができるようになったと思う。
昔はこちらの言うことを聞かせることに精一杯というときもあった。

相手の言っていること、気持ちや気分を聞いてからでないと、例えば私なら、何を甘いことを!などと思ってしまったら、きっと相手には通じない言葉になるのだろうな、と思う。
今、自戒の気持ちを込めて、気をつけて・・・、と自分に言いながら、この文章を書いている。

公開:2023/01/02 最終更新:2023/01/02
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