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短歌を詠むことで、自分の世界を構築している・・・。

こういう表現をすると、すぐに男女の愛を思い浮かべるのが私たちだと思うし、誰かが詠んだのだとしたら、私だって、そうあってほしいと思うような気がします。

今日、ふと苦しい瞬間があって、私を知ってくれているし、たぶん私がどんな思いをしているか?ということに敏感に気付いてくれるだろう人を思い、ああ、それだからこそ生きていける・・・、と思ったのです。
そこで、さらっと、推敲もせずに、次の短歌を詠んでみました。

吾のために胸塞がるる思いせし君のしぐさに我は慰む

私の話を聴いて、本当に胸塞がる思いをしてくれた・・・。そんな人が一人でもいたから、私はそれに勇気づけられて、なんとかやっていける・・・。前に進む勇気が出る。

誰だって、誰か一人でも自分のことをわかろうとしてくれて、もし自分が辛い思いでもしていたなら、そのことを思って自分のつらい想いの幾分かを想像して、心を痛めてくれる。そんな人が一人でもいたら、それは大きなしあわせだと思うのです。
そんな人がいるから、自分は生きていける。
この歌の中では、その相手のしぐさが目に見えるのだから、比較的身近にいる人ということになりますが、それを感じているのなら、別にしょっちゅう会うことがなくても、仮に遠くにいる人でもいいと思うのです。
私は、今日、日常的な些末なことをしながら(たしか、ドラッグストアで買い物したものを整理していたときのことだったと思うのですが。)、ふとそんなことを思ったのです。
そして、そんなことを考えている自分を幾分甘いなあ、とも思うけど、その実、私ってしあわせ?などと思っているところが私らしいと言えば言えます。

先日、最近、先生の車の色が目につくんです。だから、気付いていしまって・・・。
と言ってくれた生徒さんがいました。
その時間に、その場所で会うということがなんとも不思議で、そのタイミングもおかしかったのです。
でも、私の車の色を覚えてくれているなんて、嬉しいな、と思います。

教師だけではなくて、私は、最近、先生、と呼ばれる人の、クライアントにとっての大きさを、よく思います。
自分なんかが先生をしているのだから、そこから想像して、先生方にもご家族があり、職業人としてだけでなくて、家庭人としてのお顔もおもちなのでしょうけれど、そんなこんなをクライアント側は、年齢から、出身から、あれこれ想像して、頼りにするのだなあ・・・、と身内の姿からわかるようになりました。

娘も昔、古城公園で遊んでいて、私の生徒さんたちと会って、親切にしてもらって、初めて私の仕事を意識し、それを嬉しく思ってくれている時期があったようです。
教育の仕事はいいと思うよ・・・、なんて言ってくれもしました。

一方、私は生徒さんを見つめていると、この子を大切に思う親御さんがおられるのだなあ・・・、と思いますし、お世話になる方々がお若い方々だとしたら、ああ、この方を大事に思う親御さんもいらっしゃるのだなあ・・・、と思ってしまいます。

とりあえず、私は、幾分子どもっぽい気持ちで、自分のことを思ってくれる人がおられて、いつも見守ってくださっている。そして、たった一言だけ、ボソッとアドバイスをしてくださることで、私はとんでもなく、いつも、そっかなー?とまるでマジックに掛かったように明るい気分になってしまします。何にもなくて、そこには言葉しかないのに。
そんな人がたった一人でもいてくださるだけで(私の場合、贅沢なことにお一人ではないのかもしれませんが。)、本当に生きやすくなるよなあ・・・、と感謝しています。
いつも、ふとした拍子には、下手したら私の方がやり込めてしまいそうな気配もありながら、そんな私の至らなさも含めて、大きく包んでくださる存在に感謝です。
愛情というのは、大きな表現でなされるというよりは、ふとした仕草や、ちょっとした目の動きなどに表れるように思います。
その瞬間にこちらに流れてくるなんとも言えないあたたかさ。
それを感じられるからこそ、ありがたくて、少々のことなんて平気!になってしまうのだと思うのです。

そして、できることなら私も、誰かにとってそういう存在でありたいなあ・・・、と思うのです。

公開:2023/02/14 最終更新:2023/02/14
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