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激しい恋心ー『新古今和歌集』式子内親王の歌

玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする

この歌を初めて知ったのは、高校時代に 冬休みと春休みに分けて、出された百人一首を50首ずつ覚えてくる、という宿題でのことだったと思う。
その頃は、一つ一つの歌に、共感する時間などなかったから、それほどこの歌をどうのこうの思ったということもなかったのではあるけれど、大人になって、この歌を再度読んでみると、ああ、激しくて、切なくて、どうしようもないなあ、ということだった。
秘めざるを得ない恋。
でも、思わず誰かに知れてしまいそうな気持ち・・・。
その心の中のせめぎあいが、もう、どうしようもなさと共に、どうも切なく辛く伝わってくる。

今日、中三国語で解説していて、何度も、「激しいねえ。」と言ってしまった・・・。
が、その後、ワークで、この作者の思いを聞くところに来て、全員で唸ってしまった。
「激しい」というワードが出てこないのである。。

なんで?
と大人になってみればわかるのだけれど、まだまだ恋などしていないのか?あるいは秘めなければならない恋などしたことなどないのか?彼らは、この、ある意味静かな激情がわからないようなのである。

静かで、だからこそ冴えわたるような激情。
一方で醒めてもいるような、耐えることにこそ生きる意味を見出しているような。

今日、入塾のための面談をさせていただいた生徒さんに、お友達の塾生が、私のことを、「古文オタク」と言っていたらしい。
国語の教師としては、めっちゃくちゃ難解な評論文を語るのが得意なのだけれど、そりゃあね、古文をやったときの、その作者への共感ぶりときたら、それはオタクと言われても仕方ないかもしれない。

先日は、漢文で、『三国志』の中の、「死せる孔明生ける仲達を走らす」などを語っていて、ああ、この戦略よ・・・、なんと格好いいことか・・・?と映画レッドクリフの中の、金城武演じる、諸葛亮孔明を思い出していた。

どれもオタクかもしれないな。国語はね。(笑)

まだまだ勉強することはたくさんあり、10月の哲学カフェでは、カントの『永遠平和のために』が採り挙げられる。
最初に参加したとき、たしか憲法についてであり、第九条について話題になった折に、先生が、『永遠平和のために』を教えてくださったのではなかったかな?と思っている。
ある日、先生が、「以前、櫻井さんが、第9条について、同じようなことを話されていたときに、カントが『国家は人格だ。』と言っている件について話したのを覚えていますが・・・。」と言ってくださって、ああ、覚えてくださっていたのだなあ、と嬉しく思ったことがあった。

正直、この憲法第9条については、あちこちで話題にされているところに遭遇した。
高校時代は、倫理社会の時間に、自衛隊が合憲か違憲か?というレポートを書かされて、一度初めて考えさせられる機会があった。
そのときに、どうしたって、この憲法解釈には矛盾が生じるけれど、それでも、自衛隊がなくて、もし日本の国に何かあったときに、誰が国民を守るのか?と考えたときに、自衛隊をなくすなんてありえない、と思った。

アメリカとの約束だから、日米安保のために、などという論よりも先に、誰が国民を守るのか・・・?

大学時代は、そうそうそこまで憲法第9条について、真剣に考えることはなかった。
でも、大人になり、いつしか社会も教える身になってみたとき、ああ、これって、唯一の被爆国である日本が、憲法第9条において、戦争放棄をしていることが、国際社会での戦争が起こることに対しての、一種の歯止めになっているのではないか?ともう少し広い視野で感じられるようになった。

それを発言した時のことだったと思う。
だから、国家は人格、という表現をした、カントの言葉を教えていただいたのだと思う。

大学の寄付講座に出席した折には、元外交官で、外務省事務次官だったの先生が、「国会レベルで憲法解釈を変えるしかない。」とおっしゃっていた。

改憲なんて、現実的ではないし、おそらく日本という国の性質上、あるいは大和民族の性質上、はっきりするよりも、その辺、上手に切り抜けることになるだろう。

などと考えながら、和歌を語りながら、憲法の話はしなかったけれど、大和心については、少々、生徒たちに語ってしまった。

日本人の素晴らしいところは、相手でもない、自分でもない、ちょうど真ん中に物事の折り合い付けるというところなのよ。
もちろん、Noと言えない、というところもあるのだろうけれど・・・。

などと話した。

公開:2022/10/09 最終更新:2022/10/09
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