ブログblog

清少納言『枕草子』ー「ありがたきもの」

古典文学を教える身で、当然に古典の作品を読む機会も多いのだけれど、その中でも、『枕草子』と『紫式部日記』を読んでいるときほど、ああ、なんで人間って、こんなに時を経ても変わらずあれこれ思いもし、あれこれ悩み、どんな知識人たちでも、くよくよとするのか・・・?と思わされる。

清少納言と紫式部は、それぞれ栄華の極みを見た女性とも言えるだろう。
清少納言の方は、かつての一条定子のサロンがいかに素晴らしかったか・・・?ということを伝えるためのスポークスマンだったという話もあるし、『源氏物語』は、一条彰子側に寵が移り、滅びた側への鎮魂の意味があったという話もありながら、そういうそれぞれの政治の話とも絡むのであろうけれど、そんないろいろな事情はともあれ、私はそれぞれの感情の動きが面白い。

『枕草子』でよく取り上げられる「ありがたきもの」という段がある。
いわゆる類聚的章段と言われるものである。
順番にタイトルになった性質のあるものを挙げていくというジャンルの章段である。
この段だけでも、私は、清少納言の観察眼や洞察力に感心する。
どちらかと言えば、思慮深い式部の方が、あれも好き、これも好き、とあっさりしていると感じられる清少納言よりも私は好ましく感じているのだけれど、やっぱりこの人、スゴイな・・・、と思わされもする。
誰しも思っていたことのように書かれているけれど、読んでみると誰も言えない構図を語っていたりする。
そして、結構、人生における重要な心理についても語っていたりもしている。それもサラリと。

ありがたきもの。
舅に褒められる婿、また、姑に思はる嫁の君。
これはどの時代にも相当難しいことなのか?
難しいことを難しくない、あるいはなんで?と思うから、ことは余計にややこしくなるのかもしれない。
若いころの、当然あるだろうことにいちいち疑念を抱いていた自分が懐かしくなる。
ここに書いてあるじゃない。
大昔から、ありっこないことを求めてどうするの?
あきらめろよ・・・。
諦念という言葉を知らないのか?
と今の私なら若いころの私に説得するかもしれない。
いや、状況は変わることがないだろうけど、それでも気持ちのもち方の一つや二つ変わっただろう。
めったにない、というほど珍しい。
だから、あることが難しい、ありがたきこと。
今の言葉で言うと、ありえんし~!だろうか?
なら、理想形を求めることもなく、折り合い付つけてやっていくのが一番である。

公開:2023/01/12 最終更新:2023/01/12
ページトップへ