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山路来て何やらゆかしすみれ草ー松尾芭蕉

中二の頃、国語の時間にこの句と出会った。
短冊を用意してくるように言われ、好きな句を選んで書いて提出させられた。

何やらゆかしすみれ草・・・。
それこそゆかしく思ったのだろう。
今なら、サラリ!と解説してしまうのだけれど、中二生のこころには、この響きが素敵に思えたのだろう。

山路を歩いてきて、ふと見るとなんてことないすみれ草が、咲いていた。
そのすみれ草が、なんとも可憐に可愛らしく思えた。
その愛しさが伝わってくるようなこの句。
色までしっかり感じられるし、可愛い女の子のような、ちょっとおとなしめの。

私は、中学生の頃はおとなしかった。
それで、ということもないだろうけれど、この子らしい句ですね、と先生がおっしゃったが、どうもその先生にとって、私は要注意人物であったように思えて仕方がない。

イメージ違うやろ・・・。
と私は思ったが、どうも自分の自分に対するイメージと、周りの自分に対するイメージが違って困る、ということが今でもよくある。
私がすみれ草ですか・・・?ハハハ。(笑)

と言いたい私。

でも、あの色が大好きである。

もう一人数学の先生に、いてる書いてないかわからない人について話されていて、どうもそのイメージに私が入っているようで、いったい私の中学校時代はどうなっていたのだろうか・・・?

今の私をもし覚えてくださっていたとして、今の私は、先生方をがっかりさせるのであろうか?
それとも、たくましくなって・・・、と褒めてもらえるのだろうか?

さてさて、それこそ疑問である。

ところで、芭蕉の作であるこの句。
観念的な芭蕉であるから、やはり写実ではないような気がする。
なんてことないすみれ草の可愛さ、という観念的対置がきちんとなされている。

私はむしろ与謝蕪村が好きである。
具体的な、写実的な蕪村が。

でも、時折、芭蕉の句を読むと、やはり天才!と感嘆せずにはいられなくなることがある。
構成が精緻というか、なんと言うか・・・。

公開:2022/07/17 最終更新:2022/07/17
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